【完全版】ブラジルに単身移住した男の自己紹介 2020/03最新版

はじめまして。

 

Akira Wellsといいます。

 

2019年10月よりポルトガル語も分からないまま、単身サンパウロで生活をし始めました。

 

現在、私はブラジルの教育問題に関わるため日々奮闘しています。

 

その中でも、特に関心がある活動として、

①英語教育

②農業支援

③情操教育

が挙げられます。

 

今回はそれらに関心がある理由を、過去の経歴と共にお話したいと思います。

 

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教職を断念

私は教育に興味があります。

 

以前、学校や塾の先生を目指していたのですが諦めてしまいました。

 

学校の先生は放課後の事務作業や、土日の部活動のための出勤の割に薄給であることを知り、大学入学早々に興味をなくしてしまいます。

 

一方で塾講師は、高給ですが、利益を優先する株式会社の実態を知り、教育事業の限界を感じました。

 

これが大学入学当初から、4年間で起こった出来事です。

 

夢を失ったその頃、人生の転機が訪れました。

 

 

 

ブラジル移住に挑戦しアウトロー

22歳夏、ブラジルに2週間初めて行きました。

 

母のつながりで農業研修を紹介してもらい、興味半分でサンパウロリオデジャネイロに行ったのです。

 

その衝撃は凄まじく、ブラジルに到着した瞬間、電撃が走るような感覚がありました。

 

それが何だったのかは今でも分かりませんが、その時からブラジルを心の底から愛するようになったのは事実です。

 

帰国してからはブラジルに住みたいという思いだけで様々なことに挑戦しました。

 

アルバイト、派遣業、ネットビジネス、果ては法に抵触する仕事まで…気づけばアウトローな存在となっており、2年間で人間的に堕落してしまったのです。

 

 

 

フリーランスに転身するも失敗

24歳のある日を境に、私はフリーランスに転身しました。

 

大学では英語教育を専攻していたので、独自の学習カリキュラムを作成し、社会人を対象に英会話スクールを立ち上げたのです。

 

一時期は1クラス90分10000円以上で授業をするまで成功しました。

 

その後、執筆代行や問題解決のためのコンサルティング事業を始め、1年足らずで独立して生活していけるようになったのです。

 

何もかもが順調に思えましたが、そこで大きな失敗をします。

 

クライアントの女性を意図していないにもかかわらず、裏稼業に堕としてしまいました。

 

周囲の人々は「気にするな」と励ましてくれましたが、当事者としては責任を感じずにはいられず、罪の意識を背負うようになりました。

 

やりきれなくなった私は、俗世の関わりを全て断ち切り、2年間出家することを決意します。

 

 

 

修行

26歳から2年間、関西の人里離れた山奥で修行をしました。

 

基本は朝から晩まで清掃奉仕を行います。

 

ここでの学びが今の私に大きく影響しているのです。

 

①自己修養

瞑想を通して、自己の内面に意識を向け、自分のあるべき姿を見直すこと

 

環境保護

山里の大自然と一体となり、人間は自然の一部である自覚をもつこと

 

③美意識の向上

掃除を通して日常の美化を心がけ、生活の質を向上させること

 

このような価値観を通して、人間は幸せになれるのだと悟りました。

 

そして修行を終えた後、再びブラジル移住に向けて動き始めたのです。

 

 

 

現時点での活動

既出の通り、2019年10月、ついにブラジルでの移住生活がはじまりました。

 

これまでは過去の話となりますので、まずは現状報告をしようと思います。

 

現状、機能しているサービスは以下の2つです。

 

①日本人向けブラジル総合情報メディア #BRAZILISM (ブラジルイズム)

日本人の皆様にブラジルの魅力と正しい知識を理解してもらうためのウェブメディア。

YouTubeInstagramを通して、不定期に情報配信中。

 

②日本人向けブラジル・ポルトガル語学習支援サービス #ぽるこん

語学学習の一番大切なポイントの一つはモチベーションの維持。

 

モチベーションの維持に必要な専属コーチ、仲間、学習法などの全てが『無料』で手に入る画期的なオンラインコミュニティサービス。

 

 

 

将来への展望

これからお伝えすることは全て夢のまた夢に過ぎず、現段階では単なる興味を示すまでです。

 

もっと情報を集め、何らかの行動を起こしていきたいと思っています。

 

①英語教育

ブラジルでは教育制度が整っていません。

 

大学を卒業すれば英語を話す人もいますが、進学率は決して高くない現状です。

 

現在、インターネットで誰でも有益な情報にアクセスできるものの、情報リテラシーが成熟していないため、インターネットを通しての教育活動は盛んではありません。

 

インフルエンサーたちを起用した英語教育を通して、英語運用能力の高い人材を輩出し、ブラジル社会の発展に寄与したいと考えています。

 

②農業支援

昨今アマゾン森林火災問題があったように、近年、環境問題が叫ばれるようになりました。

 

(この問題の真偽は別として) ブラジルには日系移民が生んだ「アグロフォレストリー」と呼ばれる、自然と共存していける農業があります。

 

そういった活動を通して、ブラジル人の食卓に安全で健康な食事を届けたいと考えています。

 

③情操教育

ブラジルの街中を歩くと分かりますが、衛生面が整っていません。

 

個人的な意見ではありますが、これは人々の「美化」の意識の欠如が大いに関係していると思われます。

 

ブラジル人には「家族」という意識が強いため、それ以外の場所 (つまり街中など) には関心を示さない傾向が強いのです。

 

日本の美意識を伝え、感性を養う情操教育ができたらと考えています。

 

 

 

おわりに

これが私のこれまでとこれからのことです。

 

この文章を読んで頂ければ、私がどんな人物か理解して頂けるかと思います。

 

好きな場所で、好きな人と、好きなことをやっている幸せな人生を送る人間です。

 

あとは、この世界にどれくらい私と同じくらい幸せを感じられる人を増やせるかで、私の価値は変化し続けると思います。

 

今、行動し、結果を出すのみです。

 

「今」の動向は、Twitterをフォローして追ってみて下さい。

 

色んな人と知り合えたら嬉しいです。

 

宜しくお願い致します。

 

自己紹介してみた③

(続き)

 

フリーランス

当時、私はSNSのプロフィールに「英語できます」と書いていた。

 

良い宣伝材料として使えたからである。

 

ある女性がその内容に惹かれたらしい。

 

「英語教えて下さい」と送ってきた。

 

当時はアウトロー真っ只中だったので、これをきっかけに女性と接触し、また一稼ぎしようと企んでいた。

 

しかしここであるアイデアを思いつく。

 

「待てよ。

 

本当に価値ある英語教室を展開できたら、アウトローをせず、好きな英語教育で生活していけるんじゃないだろうか。」

 

必死にカリキュラムを考えた。

 

既出の通り、大学では英語教育を専門としていたので、「なぜ日本人の多くが英語を話せないのか」ということを充分理解していた。

 

あとはそれを解決するための具体的且つ現実的な勉強法を形にするだけである。

 

「言い値で結構です。

 

この独自のカリキュラムで英語を教えさせて下さい。」

 

当日、SNSを通じて出逢った彼女への最後の一言である。

 

「1クラス1200円でお願い致します。」

 

こうして私はアウトローから足を洗い、フリーの英会話講師としてのキャリアを積むようになった。

 

 

 

英会話講師

せっかくの機会なので、英会話講師としての仕事内容を記そうと思う。

 

当時私は、最終的に時給1万円以上で英会話を教えていた。

 

業界としては破格である。

 

詐欺だと思われたくないので触りだけ話しておこう。

 

まずターゲットを絞ることにした。

 

「楽して英語を話したい」と考える顧客が狙いだ。

 

ここが重要で「楽して」ということは「楽できるならいくらでも対価を払う」ということだ。

 

そこに付加価値が生まれるはず。

 

なのでこのような謳い文句を掲げた。

 

「完全プライベート」

「オシャレなカフェで」

「日時・場所自由設定」

「単語・文法勉強いらずのあなただけのオリジナル教材」

「日本語を話すだけの授業で英語が話せる」

「これだけのサポートが揃っているので少々高値ですが絶対英語を話せるようになります」

 

これが功を奏して契約に次ぐ契約につながった。

 

英会話教育事業は成功し、その他2つの事業を小さいながら展開していくことになる。

 

(この話は別機会で。)

 

 

 

過ち

順調だった。

 

全てが順調だった。

 

独立して仕事なんてできるワケがないと思っていたが違った。

 

なんとか独立して仕事ができるようになったのだ。

 

このまま事業を拡大して、ブラジルに発とうと思っていた矢先、それは起こった。

 

私の失敗で、ある女性クライアントに裏稼業をさせてしまったのである。

 

やりきれなかった。

 

彼女が自由に選んだキャリアには違いなかったが、私は責任を感じずにはいられなかった。

 

「彼女の両親がここにいたとしてどう責任取るんだ?」

 

私は私に問うた。

 

答えは出なかった。

 

答えは出ぬまま、死ぬまでこの罪を背負って生きることを自覚した。

 

そしてそれまでの自身の過ち全てを反省し、私は俗世を捨て、出家することに決めたのであった。

 

 

 

長い2年間の始まりである。

 

 

 

TO BE CONTINUED...

自己紹介してみた②

(続き)

 

ブラジル

今思えばブラジルとの出逢いは必然だったのかもしれないが、当時の私からすればブラジルへの渡航は偶然であった。

 

私の母親は流通と消費者教育を通して、農家を支援するNPO活動を行っている。

 

母の知り合いが青年向けに、ブラジルで2週間の農業研修を行うことになった。

 

「行ってみる?」

 

母が一言。

 

ブラジルや南米には当時丸っきり興味がなかったのだが、

 

「海外に行ける」

 

という安価な気持ちだけで参加することにした。

 

そして私は「恋に落ちた」。

 

私はブラジルを好きな気持ちを表現する時、いつもこのように述べている。

 

食事、大自然、人柄…今になってブラジルの魅力をようやく語れるが、それは後付け。

 

実はブラジルに到着した瞬間、何の体験もしていないのに、ブラジルが好きになってしまったのだ。

 

「ここで死にたい」

 

と直感で思ったほどである。

 

そしてその気持ちは今も色褪せない。

 

それどころか日に日に濃くなっているようにも思う。

 

兎にも角にもはじめての私のブラジル旅行の感想は

 

「息を吸っているだけで幸せになれる場所」

 

であった。

 

ブラジルは当時、将来に不安を抱えている私に一縷の希望の光を与えてくれたのだ。

 

私の夢は「ブラジルで死ぬ」こと。

 

そしてその夢を成し遂げるための挑戦が始まった。

 

 

 

アルバイト

とは言っても当時留年1年生。

 

しかも勉強にも精が出ないもんだから、遮二無二アルバイトに勤しんだ。

 

渋谷の漫画喫茶である。

 

時給850円。

 

最底辺のアルバイトで休みなく働いた。

 

業務内容はレジと清掃。

 

至って簡単なだけに、サボりまくっていたのをよく覚えている。

 

仕事自体はつまらないから不真面目だし昇格もしない。

 

そこで私はあることに気づく。

 

「あれ?オレ1時間働いて850円稼いでいるんだよな。

 

一見、労働力と通貨が対価交換されているように思うけど本質はそこじゃない。

 

オレは1時間を払って、850円を得ているということになる。

 

つまりオレの1時間の価値は850円ということになる。

 

『オレの1時間の価値は850円です』

 

と自分で決める分には誰も文句を言わないが、この価値を決めたのは上司であり、会社であり、他人だ。

 

オレはなぜ価値を強いられながら生きなきゃならないんだろう。

 

オレの1時間はブラジルで過ごすためにあるのに。」

 

大した仕事もせず、口だけは達者なものである。

 

ともかく私の中に「時は金なり」理論が構築されてしまった以上、雇われて仕事することそのものがアホ臭く思えて仕方がなかった。

 

何のアテもないまま、私は半年で仕事を辞めた。

 

というか雇用されることに興味がなくなったのである。

 

 

 

アウトロー

大学行きたくない。

 

仕事したくない。

 

何もしたくない。

 

でもブラジルは行きたい。

 

全くもってどーしようもない私は、ついに学生ニートになってしまった。

 

親不孝もいいところである。

 

文字通り、何もしない。

 

だが何もしないワケにもいかなかった。

 

「自分で生活する分は自分で稼げ」

 

と言われていたからである。

 

だがしかし、どーしても雇用はされたくなかった。

 

そこでどうしたか。

 

気づけばアウトローな道に進んでいった。

 

当時、どこかに所属することさえ面倒だったため、反社会的勢力や暴力団ではなく、一人で活動を展開した。

 

詳細は省くが、上手くやれば5分で2~3万円稼ぐことさえあった。

 

あとは芋づる式に稼ぎを増やし、生活には困らない程度で上手いことやり繰りしていたのである。

 

「このままでいいのか?」

 

自分で自分に問う。

 

アウトローでい続けることなど難しいなんてことは、とうの昔に知っていた。

 

だが起業する知恵があるワケでもなく、やめるワケにもいかなかった。

 

やるせない気持ちでSNSのホーム画面を開くと、そこには一通のメッセージが届いていた。

 

 

 

「英語教えて下さい」

 

 

 

TO BE CONTINUED

自己紹介してみた①

ごきげんよう

 

Akira Wells (仮名)です。

 

いい歳した三十路手前の男性ですが、自分の夢を追ってブラジル・サンパウロに移住してきました。

 

今日は私の自己紹介をしたいと思います。

 

「何の実績もないお前の話なんて聞きたくねーよ」

 

そう思う方も多いと思います。

 

けれども一方で

 

「怪しい」

「不思議な人」

「何している人?」

 

と聞かれることも少なくありません。

 

今までは話す必要もなく、自分のことをひた隠してきました。

 

しかしフォロワーが1000名を超え、ちょっとした影響力も無視できなくなってきた現状を踏まえ、私の短い人生をこの場で語ることにしました。

 

私のことに少しでも興味ある方は、続きを読んで下さい。

 

 

 

英語教育

 

高3。

 

進路を考え始める年頃。

 

例によって私も自分の将来の夢を漠然と考えていた。

 

私は英語学習が好きだったので、英語を集中的に学べる外国語科英語コースのある高校に進学。

 

海外の大学を目指して勉強していた。

 

だが今は進路相談の季節。

 

大学に行ったその先を見据えて、進路選びをする必要があった。

 

「英語が好きなんだから英語を使った仕事をしたらいいんじゃないか?」

 

父は言う。

 

自分は英語を通じて何がしたいのだろう。

 

考えた末、行き着いた答えが「教育」だった。

 

「教育」は他人(ひと)の人生を左右する。

 

「英語」を通して、他人の人生に感化を与えたい。

 

二十歳手前の少年が抱いた夢は「学校の先生になること」であった。

 

そこから海外大学への進路を変更し、日本の大学で教員免許の資格取得を目指した。

 

 

 

公務員

 

大学に無事入学。

 

英語教育を先行する傍ら、第二外国語としてスペイン語を専攻していた。

 

教員免許取得希望者は分かると思うが、大学に入ると教育学をはじめとする必修科目の授業をいくつか履修しなければならない。

 

そこでは現役の高校の校長先生の話が聞けたりする。

 

「先生になると土日も部活動のために出勤することがあります」

 

耳を疑った。

 

私は中高ともに趣味程度の部活動にしか参加していなかったから、土日の活動に参加したことがない。

 

けれども思い返してみれば、熱心な部活動は土日も活動していたじゃないか。

 

完全に盲点だった。

 

「私にとって学校の先生だけが人生の全てではない。

 

しかし四六時中仕事をしてしまえば職業が人生の全てになってしまうのは必然だろう」

 

そう恐れて、私は大学に入学したのもつかぬ間、公務員として学校の先生になることを諦めてしまった。

 

塾の先生

 

しかし私は、まだ夢を諦めきれなかった。

 

塾の先生になろうと思ったのだ。

 

塾の先生だと、昇進すればある程度経済的・時間的拘束から逃れられるだろうと踏んだ。

 

だから大学生の間は、大手の塾講師としてアルバイトした。

 

時給2500円で、待遇もそれなりに良かったと思う。

 

ADHD(注意欠如・多動性障害)の生徒を担当してほしい」

 

塾長は言った。

 

「え…ADHDの生徒も授業を受けに来るんですか」

 

「いや正確に言うと『殆どの確率で』ADHDだ。

 

様子を見て間違いなく多動であるものの、親がそれを認めたくないパターン。

 

塾に入れて学力をどーにかしたがっているんだろう」

 

(それって親の都合じゃ…?)

 

と言いかけたが、当時新人であった私は

 

(考えすぎか)

 

とも思い、良い経験だと気持ちを切り替え、個別授業で彼女を受け入れることにした。

 

 

全然授業を受けない。

 

というか多動で全く集中できない。

 

どれくらい集中できないかというと、中1の2学期でABCが覚えられないのだ。

 

これは大問題であった。

 

彼女のせいではないが、少なくとも私には手の施しようがなかった。

 

 

「予定通りShe / He の動詞の変化型を教えてあげて下さい」

 

塾長からのアドバイスだ。

 

「アルファベットも書けない彼女には絶対理解できません。

 

頑張ってせめてアルファベットだけd…」

 

「もし彼女の親から『いい点数取れなかった』とクレームつけられたら責任取れないだろう?

 

『こちらは教えるべき単元をお教えしましたので、塾以外での学習を怠ったお子様に原因があります』と言うにはこれしかない。」

 

理屈としては理解できる。

 

しかしそこで彼女の都合は一切配慮されていない。

 

本来は彼女のための授業であるべきにもかかわらず…だ。

 

何が理由で彼女はここまで阻害されなきゃいけないのか?

 

「金」だ。

 

塾はあくまでも「株式会社」。

 

資本主義経済の中で、金の優先順は株式会社にとって非常に高い。

 

たとえそれが「教育」、つまり「生徒の人生」と比べられても、だ。

 

「全ての塾が悪いわけではない。

 

しかし株式会社の組織の一員としての教育活動には限度がある。」

 

そう結論づけた私は、塾のバイトを辞めた。

 

同時に私は大学に行く気すら失せてしまい、後に2年ほど留年することになってしまう。

 

 

 

私には夢がなくなってしまったのだ。

 

そんな時、私はある場所で運命的な出逢いを果たす。

 

絶望の淵にいた私の人生に、潤いを与えてくれたのが彼だった。

 

 

 

そう、彼の名は「ブラジル」である。

 

 

 

TO BE CONTENUED

【連載】ブラジルを動かしてきた人たちの3つの特徴【ブラジルの歴史】

Bem vindo, amigos.

 

AKIRAです。

 

今回は「ブラジルを動かしてきた人たちの3つの特徴」と題して、「ステレオタイプな」ブラジル人の特徴をお話していきたいと思います。

 

注意しなければならないことは、ここでステレオタイプな (典型的な) 」と述べていることです。

 

例えば私たち日本人はよく海外の人から「几帳面」などとして形容されたりしますが、全員がそうではありません (私とか) 。

 

同時に日本というある一定の範囲で、似た文化や経験を共有しているので、国民や人間性にある程度、共通点が現れるのも事実です。

 

白黒つけず「大体こんなもんかぁ」といったつもりで、読んでもらえたら嬉しいです。

 

では、本題に入る前に、前回の復習と今回のキーワードを見てみましょう。

 

前回の復習

 

前回は、ブラジルが単一の輸出品に貿易を頼っていた話をしました。

 

これを「モノカルチャー経済」と呼びます。

 

具体的には、「パウ・ブラジル」「砂糖」「金」「コーヒー」でした。

 

これらの輸出品を通して、ブラジル経済は今日まで続いているのです。

 

今回のキーワード

 

これまで「政治」「経済」の話をしてきましたが、ブラジルという国が政治や経済を行っているワケではありません。

 

国はあくまで概念であり、国に住むのは私たち「人間」です。

 

そしてそこに住む多くの人々には、どの時代にも共通点がありました。

 

これを読み解くキーワードが

 

「家父長制」

キリスト教

「奴隷」

 

です。

 

この3つのキーワードを理解するだけで、これまでの歴史を背負った、現代に生きるブラジル人たちの様子が少しずつ明らかになってきます。

 

では始めましょう。

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大農場主

 

大農場とは広大な敷地や土地を指します。

 

その土地を所有する主(あるじ)を大農場主と呼びました。

 

ここで注目したいのが「農場」という言葉です。

 

日本史の授業を思い出してみましょう。

 

「農民」という言葉から日本人の私たちはどのようなイメージを持つでしょうか。

 

これは個人的な話になりますが、私筆者は「小作民」が頭に浮かびました。

 

一方的なイメージではありますが、周りと協力したり、毎日コツコツ地道に農業したり、大自然に精通していたり…といった「典型的な」日本の農民層の特徴を思い出したのです。

 

「大農場主」に話を戻すと、「農場」という言葉が入っているため、当初、そういう性格を持った人たちかと考えていましたが、実際は違ったのです。

 

彼らはとにかく仕事をすることを拒みました。

 

大きな土地に、使用人や小間使いや奴隷の全てを抱え、一国の主のように振る舞い、全てを支配したのです。

 

彼らは「砂糖」の時代に始まり、「金」「コーヒー」と資源が変わっても、それぞれの時代で存在し続けました。

 

すなわち、これらの輸出品で成功した人たちは、どの時代であろうと大農場主になったのです。彼らは共通して以下の特徴を持っていました。

 

①家父長制

 

家父長制とは、家族に対する統率権が、父親に集中している家族の形態のことです。

 

いわば暴力団の(ような)世界観です。

 

家族の中では父親の発言権は絶対でした。

 

ここで具体的に、当時の様子を見てみましょう。

 

「こうして、砂糖産業が隆盛になるにつれてエンジェーニョ主[大農場主]の権勢はいやが上にも強大になり、エンジェーニョは総督政府の権限の及ばない荘園的な存在となった。そして、エンジェーニョ主はエンジェーニョ内では、奴隷に対してのみならず、その他の者に対しても生殺与奪の権を握るほど絶対的な存在であった。」

アンドウ・ゼンパチ(1983). ブラジル史 岩波書店

 

 

キリスト教

 

言わずもがな、キリスト教は当時ヨーロッパ諸国を中心に絶大な力を持っていました。

 

ポルトガル支配下にあったブラジルも例外ではなく、全ての人々が改宗を余儀なくされたのです。

 

大農場主は勿論のこと、奴隷もキリスト教を強いられました。

 

その影響は大きく、現在ではカトリックの信者が国民の7割以上を占めると言われています。

 

大農場主は敷地内に協会まで持っており、司教は経済的に大農場主に支えられていました。

 

信仰を説くこともなく、時には怠惰で淫蕩な暮らしをしていた者もいたそうです。

 

③奴隷

 

ブラジルの一番の大きな闇はこの奴隷にあると言っても過言ではないでしょう。

 

先に述べたとおり、大農場主は楽をしながら、莫大な利益をあげることを第一に考えていました。

 

そのために奴隷の存在は不可欠です。

 

奴隷制度は長らくこの国を蝕み、世界で奴隷制度が一番遅く終わった国という汚点を今でも背負っているのです。

 

この影響は今でも如実に続いており、格差社会の根底にこの問題はいつもつきまとっているでしょう。

 

そしてこの奴隷制を長らく利用し続けた張本人が、この大農場主だったワケです。

 

まとめ

 

「政治」「経済」が繁栄していく中で、国を実際に動かしてきたのは、大農場主たちでした。

 

どの時代にも存在し、権力を持ち続けた彼らは、今でもブラジルに影響を与え続けています。

 

彼らの特徴は、「家父長制の中で豪華で怠惰な生活をしていたこと」「キリスト教であったこと」「奴隷を抱えていたこと」です。

 

…あれ…私たちは今、歴史を学んでいますが、この勉強を通して今のブラジル社会が見えてきたのではないでしょうか。

 

例えば、私たち多くの日本人からすれば、(申し訳ないですが、)今を生きるブラジル含めラテン国家の人々は、相対的に「怠惰」に映ってしまうことがしばしばあります。

 

ここで忘れてはならないことは、生まれつき彼らが怠惰なのではなく、過去500年怠惰な歴史を紡いでしまった先人が、今でもその影響を残しているということなのです。

 

今回の勉強を通して「だからブラジルにはキリスト教が多いのか」「だからブラジルでは極度な格差社会が続いているのか」ということが分かったと思います。

 

歴史を勉強することによって、その国の文化をより深く理解できるようになりましたね。

 

ブラジルの歴史の概要はこのへんで終わります。

 

さて次回から実際に、一からブラジルの歴史を勉強していきたいと思います。

【連載】ブラジルを支えてきた4つの基盤【ブラジルの歴史】

Bem vindo, amigos.

 

AKIRAです。

 

今回は「ブラジルを支えてきた4つの基盤」と題して、ブラジルの基礎をつくってきた要素を見ていこうと思います。

 

まず、本題に入る前に、前回の復習と今回のキーワードを見てみましょう。

 

前回の復習

 

前回は「ブラジルにおいて誰が国を治めるか」という点を流れに沿って学習しました。

 

ポルトガル」「王様」「国民」という順を追いましたね。

 

そしてこれらの時代をそれぞれ「植民地期」「君主政期」「共和制期」と呼びます。簡単ですね。

 

このような政治体制で歴史をつくっていくワケです。

 

今回のキーワード

 

さて、国の政治体制が整っても、基本的にお金がなければ国は機能しません。

 

ブラジルを影で支えていたのは一体何だったのでしょうか。

 

今日までブラジルは4つの産業によって支えられてきました。

 

「パウ・ブラジル」

「砂糖」

「金」

「コーヒー」

 

です。

 

この4つを追うことによって、ブラジルの経済基盤が見えてきます。

 

では始めましょう。

 

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①パウ・ブラジル

 

まず、パウ・ブラジルが大切な資源となりました。

 

パウ・ブラジルとは、赤い染料の元となる木のことです。

 

ブラジルが「発見」された当初、ポルトガルは金銀財宝をお目当てにしていましたが、残念ながら見つかりませんでした。

 

そこでパウ・ブラジルを他国に輸出し始めたのです。

 

パウ・ブラジルで莫大な利益を挙げたわけではありません。

 

しかしここで重要なのは、パウ・ブラジルがブラジルという国の名前の由来になっているということです。

 

②砂糖

 

次に砂糖の生産が始まりました。

 

当時砂糖の需要が増したこと、アフリカから黒人奴隷を大量に輸入し、生産量を増大させたことによって、経済的な発展を遂げました。

 

砂糖で成功した人は全て共通して大きな農園を所持していました。

 

そしてその土地に大きな住まいを構え、多くの人々が住んだのです。

 

③金

 

次に金の時代がやってきます。

 

やっとお目当ての金が見つかり、「ゴールド・ラッシュ」が訪れたのです。

 

ここで莫大な人口増加を遂げますが、政府が厳しく管理したため、誰もが大いに儲かったわけではありません。

 

それでも成功する人は生まれ、彼らはやはり広大な土地を所有していました。

 

そして豪邸を建て、優雅な生活を送ったのです。

 

④コーヒー

 

それからコーヒーの時代に移り変わりました。

 

金は発掘できたものの、すぐに尽きてしまったのです。

 

そこで始まったのがコーヒー栽培です。

 

この頃になると多くの移民が増え、様々な人種がこぞってコーヒー栽培を始めたのでした。

 

コーヒーの大農園を抱えた主(あるじ)は、彼らを雇い、コーヒーの生産に励んだのです。

 

モノカルチャー経済

 

「パウ・ブラジル」「砂糖」「金」「コーヒー」このような経緯で、ブラジル経済は発展していきました。

 

よく見ると輸出品の種類が全然豊富ではありません。

 

いつも単一ですね。

 

「単一」は英語で”mono”と訳されたりします。

 

白黒印刷を「モノ」クロと呼んだりしますね。

 

そして単一輸出品での貿易を「モノカルチャー経済」といいます。

 

つまりブラジルは「モノカルチャー経済」で成立していました。

 

これはブラジルだけでなく、植民地にみられる傾向で、輸出相手国の都合のみが優先された結果となります。

 

一見、一つのものを生産していればいいので非常に楽にみえますが、需要がなくなると、供給できず不景気になるという不安定な経済状態が続いてしまうのです。

 

まとめ

 

ブラジルは「モノカルチャー経済」で発展した国です。

 

現在は状況が違っていますが、過去に「パウ・ブラジル」「砂糖」「金」「コーヒー」を輸出していたのです。

 

さてこれらを生産していた国民はどういった人たちだったのでしょう。

 

「政治」「経済」の上で国が発展し、そこで「文化」が醸成されていきます。

 

次回はどの時代にも共通しているブラジルの国民性にスポットを当ててみたいと思います。

 

【連載】ブラジルの歴史をざっくり3つに分けてみた【ブラジルの歴史】

Bem vindo, amigos.

 

AKIRAです。

 

今回から【ブラジルの歴史】の連載が始まります。

 

記念すべき第1回目は「ブラジルの歴史をざっくり3つに分けてみた」と題して、ブラジルの歴史の大まかな流れを掴んでいきたいと思います。

 

ブラジルだけでなく、歴史の勉強では「難しい用語」と「年代」が連発し、多くの人たちがアレルギー反応を示します。

 

私の連載では、できるだけこれらの要素をなくし、簡単に説明するよう心がけましたので、安心して読み進めて下さい。

 

では、本題に入る前に、今回のキーワードを見てみましょう。

 

今回のキーワード

 

今回の3つのキーワードは

 

ポルトガル

.「王様」

「国民」

 

です。

 

これらは「ブラジルにおいて誰が国を治めるか」という点で重要なキーワードとなりますので、是非参考にして下さい。

 

では始めましょう。

 

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①植民地期 (「ポルトガル」が国を治める時代)

 

ブラジルの歴史は植民地期から始まります。

 

世はまさに大航海時代 (ONE PI●CEみたい笑)。

 

ヨーロッパの国々が新大陸を目指し、航路を進める中、ポルトガルがブラジルを「発見」しました。

 

勿論、かつてそこには先住民がいましたが、歴史を書き記していませんでした。

 

ですから、ブラジルの歴史は発展された年、1500年から始まります。

 

覚えやすいですね。

 

はじめブラジルは、ポルトガルの資源を供給するためだけの植民地だったのです。

 

ですからこの時代を「植民地期」と呼びます。

 

②君主政期 (「王様」が国を治める時代)

 

次に君主政期が訪れます。

 

「君主政」とは文字通り、王様が国を治めることです。

 

つまりこの時代、ポルトガルではなく、王様が国を仕切っていました。

 

私たちが植民地化された国に住んでいたとしましょう。

 

良い待遇を受けられるとしたら満足ですが、大抵は搾り取られる立場ですので、不満がこみ上げてくることが想像できると思います。

 

それと同じように、植民地化されていたブラジルは不満の声を挙げ、ポルトガルから独立します。

 

そして新たに王様を立てて、君主政が始まるのです。

 

この時代を「君主政期」と呼びます。

 

③共和制期 (「国民」が国を治める時代)

 

そして共和制期となりました。

 

「共和制」とは「君主制」の対義語となります。

 

つまり王様がいなくなりました。

 

過去の歴史を見ても分かる通り、多くの国で君主制が崩壊するのは、王様に対し国民が不満を募らせるからです。

 

ブラジルも例外ではなく、君主制の後、国民が政治を始めるようになりました。

 

ここから現代までを「共和制期」と呼びます。

 

まとめ

 

はい。

 

今回はここまで。

 

「え?!これだけ?!」と思ったあなた。

 

これだけです笑。

 

「ブラジルにおいて誰が国を治めるか」という点に絞ると、ポルトガル」「王様」「国民」という順を追っています。

 

そしてこれらの時代をそれぞれ「植民地期」「君主政期」「共和制期」と呼びます。

 

簡単ですね。

 

これでブラジルの歴史の大枠が見えてきました。

 

次回からはこの歴史を違う角度から見つめ直してみましょう。